ウラジーミル・ソローキン『青脂』(早稲田文学)

 3分の1*1のみが早稲田文学3号に訳載された、伝説の珍作である。せっかくなので紹介記事を書いてみた。ネタバレなし。

 時は21世紀も後半。永久機関のような炉に必要な20キログラムの『青脂』を採るため、遺伝子研-18に科学者と軍人が集められる。語り手ボリスも召集された一人だ。機密保持のためか、外との交信手段で許されているのは伝書鳩のみ。彼がモスクワにいる同性の愛人へ鳩で送る手紙という形式を使い、物語が進んでいく。

 『青脂』の収穫法とはいかに。有名な古典作家・詩人のクローンが執筆活動で生みの苦しみを味わい、限界まで作品を書き上げたのち、仮死状態に陥る――その肉体に蓄積される謎の成分こそが青脂だ。クローンといっても見た目がそっくりなわけではない。1月6日の手紙において紹介されるのは、オランウータンそっくりのトルストイ4号(「オリジナルとの相関係数73%」)、しじゅうプルプル震えている赤毛の太った女性ナボコフ7号(同89%)、キツネザルそっくりのパステルナーク1号、性別不明で骨が異様にあちこち発達しているドストエフスキー2号など7体のクローンだ。
 語り手ボリスは愛人に、実験の経過報告と各クローンが残した原稿そのものを送りつづける。この偽作がまた揃いもそろってとんでもないのだが、内容は読んでのお楽しみということで。


 さて書簡形式といっても、これがなかなかのくせものだ。中国語*2を中心に時に英語や独語、仏語が混じる。そこに、我々には皆目見当もつかない、未来の比喩表現や固有名詞まで加わるのだから恐ろしい。たとえば罵倒語「リプス」。付属するプチ造語辞典によれば「2028年のオクラホマ核災害において、勝手に被爆地に残り、25日に渡って死にゆく自分の状態を実況放送したアメリカ海兵、ジョナサン・リプス軍曹の苗字」が元ネタであるという。英語におけるfuckのように使われる。

 ところで、登場する造語の多くは性表現にまつわるものである。読者は、未来人のあけすけな表現(と思われるもの)の大群に圧倒されるだろう。本作に官能的という言葉は似合わない。ずばり、下品だ。「遺伝子研-18は尻を思わせる二つの巨大な円丘の間に隠されている。」(p. 594)という文章をはじめとして、この小説は星とかとか肛門のanalogy(←と書くと意味深)にはことかかない。親切にも冒頭の訳注5にはっきりとそう書いてある。
 そもそもソローキンが、はじめのラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の一節を引用をもって「俺は得意の下ネタを一切自重しないッ!」という宣言に代えているのは、火を見るよりも明らかである。なぜなら『ガルガンチュアとパンタグリュエル』もまた、そこかしこで糞尿ネタにまみれた逸話が飛び出してくる小説だからだ。ひょっとすると一番有名かもしれないのが、尻ふきについてガルガンチュアが一席ぶつシーン。用を足したのち、尻をふく素材に試行錯誤した経験を語るものである。ガルガンチュアは帽子やら頭巾、植物いろいろから始まって猫やニワトリまで試し、ベストは生きたガチョウと公言してはばからない。この小説からのステキな引用は、まちがいなく子供のように自由奔放にやってやるぜという著者のサインだろう。
 というわけで、前半は刺激的でよくわからない文体にひたすら翻弄される。言葉にもみくちゃにされる。こいつは大したアトラクションだ。まだ買っていないというそこの貴方も、一丁もまれてみませんか?(以上セールス終わり)

早稲田文学 3号

早稲田文学 3号

 読了者向け・科学者たちの秘密レシピ
 掲載された部分以降、クローン体による抱腹絶倒のパロディ小説は出てこないようだ。では、あの後どうなるかというと、伝書鳩が飛ばされつくしたので手紙が再開するのは雛が育つ数ヶ月後、4月になる。科学者たちはめでたく20キロの青脂を収穫し終わり、お祝いに乱痴気騒ぎを繰り広げる。もちろん、大いに飲む。そして文中に登場するカクテルレシピが下記だ!

  • ドイツ系のウィッテが作ってくれるカクテル:トロピカルカクテル「チチ」のロシア+ドイツバージョン。

 ウォッカ1:ブルーキュラソー1:白樺の樹液1:ココナツクリーム1:カルーア1:羊*3のクリーム1さじ:アヴェンティヌス(すッッッごいダークなビール)1

 直後に「そして青紫色レーザー光を加える」ってプロセスがw

  • 上海人ファン・フェイがシェイカーを振って作るのがこちら。

 トマトジュース5:酒精3:アカアリ2:しょっぱい氷1:赤トウガラシ1さや。

 むろん、中国人が作ったから真っ赤なカクテルなのだろう(国旗と共産主義のイメージ) ソローキンは明言せずにいろいろな遊びを盛りこんでいるので、それを探すのも本書の大いなる楽しみ。チチのほうはブルーキュラソー+脂肪分で「青脂」、それにアルコール分をウォッカとドイツビールで増量ということではないかな。

 さて物語はパーティの最中にとんでもない方向へ転がりだすのだが、ロシア語がほとんどできない私は一杯やりながら更なる翻訳をおとなしく待つとする。アカアリは用意できないし、白樺の樹液も実家近辺じゃなきゃ売ってないけど。

*1:先述した、ソローキンのサイトで公開されている全文を確認したところ、正確には10分の3くらいだった。

*2:日本人は、翻訳に際して漢字表記されているため、文中の中国語を推測することもできよう。原文は発音のみが書かれているだけだから、さらに辞書の必要性が高いに違いない。

*3:乳かな?