柴田元幸氏講演会「翻訳について語るときに翻訳者の語ること」

 柴田元幸氏の講演@早大をざっとレポートする。
 柴田氏の出演なさるイベントを観るのはこれで2度目。私は決して熱心なファンというわけではないが、じっくり翻訳/英文学の話を拝聴する機会などなかなかないので思わず馳せ参じてしまった。会場の入りはMAX。中規模(大学の規模によっては大教室レベル)が開始3分前には8、9割埋まっていた。フルに座席が埋まっていたのか、遅れてきた学生が遠慮したのか、はたまたスタッフなのか判別がつかなかったが、終了後ふりむけばそこには立っている人々の姿が。

 ちなみに筆記用具を忘れたので、記憶から再構成している。今日は英語を日本語に翻訳する過程で色々なものが抜け落ちるという話だったが、日本語で聞いたものを日本語でまとめたって大量の漏れが生じるのは当たり前である。文意をとることに集中した結果、単語はかなり元の言葉で使われていたものと変わってしまった。眉にツバをつけながらご覧あれ。なにか問題のある箇所があれば削除します。また、自分のまとめの不出来さに我慢ならなくなって消す可能性もあります。

 下に話題になった主な本のAmazonリンクを貼った。表示されている購入数・クリック数ははてなダイアリー全体の総計である。このリンクから本を買うとはてなの収益になるようだ。念のため。


 講演開始。まず文学部のカフェテリアとの別れを惜しむ柴田氏。

 東大で副学部長的ポジションについたため早大院の授業をやめざるを得なかった。早大のカフェテリアは広々として日当たりよく、時間も気にしなくてよいので仕事場としてとてもよかったのに。1度ここで『モンキービジネス』編集会議をやってみて、編集チームにも好評だった。読者の可能性がある学生たちの様子も観察でき、読者を想定してやる気を出すこともできたのに……(笑)

 奇抜な技巧を尽くした小説がどう翻訳されたかという例を紹介する、導入部。
 ジョルジュ・ペレック『煙滅』→レーモン・クノー『文体練習』。『煙滅』はギルバート・アデアが手がけた英題“A Void”*1にも触れていた。なお柴田氏は英訳版で読み、仏語・邦訳版にはほとんど目を通していないとのこと。学部生や一般客が驚きの声を上げたり、必死にメモをとったりしていて微笑ましかった*2。終了後、駅前の本屋で急に在庫がはけてそうだ。

煙滅 (フィクションの楽しみ)

煙滅 (フィクションの楽しみ)

A Void

A Void

文体練習

文体練習

 ここからご自身の手がけた本にまつわる話へ。

 エドワード・ゴーリー『うろんな客』は原題The Doubtful Guest。本文は、原文では韻を踏んでいるが日本語はもともと脚韻を踏む文章がさほど一般的ではない。よって、ただ日本語訳するのではなく原文の「なじみのある詩的表現を使っている」ところに沿うため、すべて七五調で訳してみた。なお、最後のページのみは調子が違うが、ここでは訳していてつげ義春の『李さん一家』を思い出した。実際、読んだ人の複数から類似を指摘された。気づいてもらえて嬉しかった。

うろんな客

うろんな客

 ところで記憶にある限りでは、私の柴田訳との初遭遇は『うろんな客』だと思う。

  • 格言1『あらゆる翻訳は誤訳である』

 (サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ」の訳例*3やバーナー・マラマッド『喋る馬』収録の「白痴が先」を提示して)

 英語として正確であっても、本来の語り手の語気・語り口のトーンが異なってしまえば誤訳である。「白痴が先」の終盤はめちゃくちゃな英文法で喋っているゆえに登場人物の切迫が感じられる。しかしこれを下手に変な日本語として訳すと、よほど巧くやらない限り、たんに訳者の文章がヘタだとしか思えないものになってしまう。(そこで文法の誤りはほとんど踏襲していない)

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 何者にも完璧に正しく翻訳することはできない。ある観点をクリアしても、別の観点から見れば誤りになることもあるという話。

  • 格言2『翻訳とは快感の伝達である』

 だからこそ文芸翻訳は「文章の意味を翻訳する」のではなく、(原語で)小説を読んで得られる快感に近いものを読者が味わえるよう翻訳する必要がある。

 意訳・超訳のすすめと見なされかねない発言だが、要するに大事なのは面白さを殺さないことというわけだ。この後、ちょっとカポーティなどの話にいって、質疑応答へ。印象深い発言のみ抜粋。
 ・スティーヴン・ミルハウザーが「翻訳者たちは寝ている間に仕事をしてくれる、小人のような存在だ」と言っていた。確かにミルハウザーにとっての夜は(日本にいる)僕の活動時間だし、彼の体格と比べたら僕はほんとうに小人のようなものだけれど。
 ・翻訳と書評やエッセイなどの執筆はまったく違う。翻訳はたとえばこうやって講演しながらでも、ゆっくりなら進められる作業だ。底本は逃げない。でも、自分の頭で考え、組み立てる内容はたとえば途中で電話なんかしたら逃げちゃう。
 ・『メイスン&ディクスン』*4を訳すにあたり心がけたのは、ユーモラスな部分を訳すること。いま翻訳中のジョゼフ・コンラッドはそれとわかるユーモアがない。だがコンラッドの生真面目さや過剰さはときにユーモラスに見える。ちゃんとそういった愉快さを訳文に反映させたい。
 ・(作風を意識して翻訳することもあるかという質問に対し)ポール・オースターなんかについてはそう。似たような比喩を二度つかっていたり、同じ内容のことを言い換えてふたたび登場させたりする。ひょっとするとこれが彼の作品のストーリーがふしぎと覚えやすい秘密かもしれない。立体視のためには同じ絵を二枚ならべることが必要だが同様に、オースターが意図的に二回出してきたものは二回きちんと出さなくては(読者が)著者が意図した構造を視れなくなってしまう。
  それからミルハウザー。彼は物に偏愛があるから、たとえば風景描写を訳す際には、決して物が出てくる順番を変えないことにしている。あれを変えるのは、意図したカメラワークをめちゃくちゃにするも同然だから。
 ・(翻訳はオリジナルに勝てない、常に負け戦だという発言があったが勝っている例はないのか?という質問に対し)ロバート・クーヴァー『女中(メイド)の臀(おいど) 』は勝っていると思う。というか佐藤良明がSpanking the Maidを『女中の臀』と訳した時点でこれは勝利だろう(笑) あとクノー『文体練習』も勝っているのではないか。

女中(メイド)の臀(おいど) (ファンタスティック小説シリーズ)

女中(メイド)の臀(おいど) (ファンタスティック小説シリーズ)

 ・(格言3は?)翻訳者は何もしない方がいい(笑)

 そのほか雑多↓
「結末を知らない本を訳すほうがはかどると思う。でも面白くない本はやりたくないから全部よんでから翻訳する」
機械的な単純作業が好きだから、単純に訳していくのも大好き」
「登場人物の語り口がしっくり来ないときは、最後のほうまでとりあえず訳してみる。途中でふと思いつくから。たとえば『メイスン&ディクスン』でキャラクタの喋り方がいまいちハマらなかった場合。酔っぱらうと一人称が「わし」になる友達と飲んだ機会にピンと来て、ディクスンの一人称に「わし」を採用する修正をおこなった。また完成させてから読点の位置や語尾、活用方法*5をこまかく調整している。登場人物にはかならず、日本人であればこういう風にしゃべるだろうという話し方をさせる」
 これらの発言を聞くに、柴田氏には天性のものが――気質とかセンスとか――ありすぎて、はたして普通の人があのトークから翻訳の極意を学べるかというと謎な気もする。しかし抜群に面白い。書店イベントのときより話のレベルを上げていたのではないか。(そして、まだ多段ギアをたった1つ上げただけであるという予感もした。これはさらに上のレベルで話してもらえるだろうゼミ生がうらやましい)
 最後にスチュアート・ダイベック「ファーウェル」(『シカゴ育ち』所収)をよどみなく朗読されて、終わり。1時間40分ほど超特急で駆け抜けた講演であった。冷房がききすぎて聴衆の多くは凍えていたが、氏はスライド投影機と演壇の間を半袖Tシャツ姿でひょいひょい動き回っていた。なんというパワーか。

 感想おまけ:話題にされた本・作家がメジャーなもの中心、近刊や今後の予定もメジャー作家ばかりだったのに少し物足りなさを感じてしまった。個人的には、氏にはゴーリーミルハウザー、ノーマン・ロック、そしてブライアン・エヴンソン(→私の感想)、バリー・ユアグローといった奇妙で黒々とした芸風の作家のさらなる紹介のほうを熱望している。
 追記(5/29):「訳すもの(紹介するもの)を二択の中から選ぶとすれば、なるべく未だ紹介されていなかったものをやる。すでに邦訳がある作家であれば、それまで知られていた作風からすれば異色なものをやりたい」ということをおっしゃっていたのだよね。出版不況の中、外国の小説は賞をとるか/有名な作家の手によるか/ほんのひとにぎりの有名な翻訳者の手によるかしないとなかなか翻訳されない。様々な小説家の掌編が収められたアンソロジーなんて、いまやめったに拝めない。だからこそ紹介のセンスと周知させる「威力」がある方には、がんがん未紹介のものの発掘をしてほしいのだ。

*1:avoid=a voidの掛詞

*2:つい失礼な書き方をしてしまった。仏文の出版状況に意識がない英文読みは少なくないのだろうか。知っていて笑っているというよりは、初めて存在を知って書き留めていた人のほうが多い印象。柴田ファンには奇想海外文学好き・ウリポ好きなんか珍しくもないんじゃないかというイメージだったのだが。

*3:学生のかな?

*4:トマス・ピンチョン全小説1『メイスン&ディクスン』新潮社, 6/30発売予定

*5:例:「行き、」を「行って、」にするとか。