Michal Ajvaz“The Other City”6章

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The Other City (Eastern European Literature)

The Other City (Eastern European Literature)

 他の本を読む合間にちびちびと進めていこうと思う。
 さて4、5章では「路面電車」が登場する。「路面電車」は霧に包まれたチェコの街を走り回り、ときどき人をさらう。主人公である「私」は、なにげなく入った店である男の話を聞く。彼は再三むすめに「路面電車」に気をつけるようにうながしたが、その甲斐なく彼女を「路面電車」にさらわれてしまう。ここからが怖い。一種の「マヨイガ」ものと言えようか。

 「もう二十年も前のことだ」と彼は静かにいった。
 「おれたち夫婦がその後娘に会うことは二度となかった。数回、暗い部屋の鏡の奥にあの子の顔を見ることはあった。ときたまストーブのうなりに混じって声が聞こえた。最初のうちは、本のページの間や箪笥の底から手紙のきれはしを見つけることもあった。しかし、彼女のメッセージは徐々におれたちの理解の範疇から離れていった」

 この後、娘の説明した彼女のいる異界について父親が語りきかせる。鏡の向こうの異界となれば、当然思い浮かぶのはボルヘス『幻獣辞典』の「鏡の動物誌」の項(中国神話)である。黄帝が鏡の中へ閉じこめたものたちが再びこちらに出てくる予兆として、鏡の中を魚が横切るのがちらりと見えるという話だったかと思う。著者はボルヘスに関係する書籍も出しているようなので、実際にあれを念頭に置いて書いている可能性もある。鏡の奥に映るものについては、次の6章でも描写が出てくる。短篇の連なりのような本書だが、各話で出てきた言葉やモチーフは次の章にも登場する。少し前の章に出てきた意外なものが再登場することもある。モチーフの反復によって、チェコと異界の存在感の重み・厚みが次第に増していく。輪唱のように幻想は増殖していく。この先、どうなってしまうのか。

 5章の終わりで店を出た語り手は、バス停付近で伝言板を見つける。ガーデニングやハイキングのクラブ案内、ソファーのセールの宣伝などに混じって「私」の注意を引くものがあった。
 「『寝室大戦争』についての最新発見をテーマに講義を行う。水曜2:30AM、芸術学部にて」
 次章のありえざる「深夜の講義」のエピソードを読むために私はこの本を買ったと言っても過言ではない。好きなところを抜書きしていったら2ページ分にも及んでしまった。さすがに量が多いので、誰かにお叱りを受けたら下げるとしよう。すぐ下の引用は前奏のようなものなのでマトモに読まなくてよい。問題はこのあとだ。当然ネタバレである。

 (前略)……そこで、夜更けに芸術学部をのぞきに行くことにしたのである。旧市街の広場を経由していった。街路は雪に覆われ、無人のしじまの中、蛍光灯が小さなうなりを上げていた。芸術学部の巨大な建物は棟の連なりの最後尾にひっそりとそびえていた。ようやくたどりついたところで立ち止まって建物を見上げる。明かりのついた窓はない。ただ街灯の蛍光管の輝きを反射し、1階の窓ガラスが光っているだけだ。
 はたして、柱廊の正面玄関は開いてた。私は中へ入りこんだ。内部の暗さ、寒さはまるで空きビルだった。うつろに寂れた受付を通りすぎ、幅の広い階段を上がる。中庭に面した窓のある回廊を進んでいく。ときどき足をとめて耳をすましてみたが、建物の中は墓場のように静まり返っていた。聞こえるのは路面電車の夜行便が川沿いの道をガタゴト行く音のみ。
 私は講義室の扉を順繰りに開け、のぞきこんだ。どれも真っ暗でからっぽだった。三階のある講義室を開けてようやく、外套を着こんだ人影たちが机のうしろの長椅子にずらりと腰かけているのを見つけた。演台からは、蛍光灯のかすかな明かりに照らされた講演者の単調な声音が流れてくる。弱弱しい光のひとすじが、山羊を思わせる先のとがったひげをした彼の陰鬱な面差しを照らしだしていた。私はドアの側の長椅子の、空いていたへりに座った。

 中略。講演者の語りの部分、ここからだ。

 ごく数年前まで、学会はきわめてわずかな例外を除けば『寝室深部における大戦争』を歴史的事実として認めていなかった。(略) ところが最近の研究――とりわけタンス考古学上の最新成果から判明したのは、大戦争は実際に起こっていたどころか、今なおもまちがいなく続いているということだった。
 ゆるやかに巡る灯台の光が投げかけられるたび、寝室のうす暗い片隅にある鏡の中で英雄たちの黄金像がちらりと輝く。住人たちが暗い玄関を通って夜中に浴室に向かおうとして、ふいに揺れる浮き橋(ポンツーン)に足を踏み入れてしまうことはままあった。闇の奥へ続く浮き橋をあえて渡ろうとする者などほとんどいない。にもかかわらず、人々は橋の終端では、自分の名前を忘れてしまうのだと知っていた。そこでは虐げられし獣たちの乳を浜辺の妖都へ運ぶ金属パイプにひたいを押しつけ、冷たさを感じてみることもできるという。

 夜になれば、ペルシャ絨毯柄の迷彩服をまとった影が寝室を駆け抜けていくのが目撃される。ベッドの間からは野戦電話用の電線が見つかった。部屋の隅の暗がりには塹壕があり、晩飯時にはそこからギラギラした目がのぞく。幼い子供はたいがい「すみっこに何かいるよ。ぼく、ちょっと見てくる」などと言い出すので、親たちはすかさず制止する。「ごはんの最中に席を離れるんじゃありません!」
 内心、我が家が戦場のただなか――忘れ去られたアウステルリッツに属しているのではないかと疑念を抱きつつも、大人たちは部屋の隅やら隙間やらで勃発中の戦争にしいて気づかぬふりをした。

 兵士たちは壁紙の暗号解読を試みていた。その情け容赦のない文法は、明らかに協定違反だった。有毒音楽がほぼ休みなく奏でられ、非人道的だとして条約で厳重に禁止されているはずの氷ヴィオラの音色さえも聞こえてきた。破壊工作員の一団は、敵軍の神話集成へ新たな登場人物を挿入してのけた。鹿の角もつ魔神を。(後略)
 戦死者たちはクローゼットの中の幽明境を力なくさすらっていた。入り口かつ夜の浜辺である地点が侵攻されると、何人もがおぼれてまたもや命を落とし、さらなる果てにある冥界で意識を取り戻した。かの地は揺れる草原が無限に続く平野で、ところどころに白い大理石の機関車が置いてある。
 一方、クローゼット内のジャングルは熱気にあふれ、熾烈な白兵戦がくりひろげられていた。ぶら下げられたスーツの後ろから意表をつき、研ぎ澄まされた刃が飛び出してくる。兵士らは何ヶ月もの間、延々とコートにまぎれて過ごし、そのうち人間よりもコートに近い存在になった。思考もまた、いつしかコートのそれと似ていった(たとえば彼らは何時間もずっと、家々と銅像と街灯がある街と、その道路に孤独な仔馬を歩かせてやることを考えて過ごした) そうして、ことが起こった。ある日ぼうっとしていた家主が、兵士の一人を羽織って出かけてしまったのだ。兵士はこの行為を侮辱と受け止め、彼を射殺せんとした。だが、彼のやわらかライフルから飛び出したのはやわらか弾で、ただ歩道に転がり、ハトにつつかれた。(以上拙訳)

 この後もうちょっと続いてから、主人公は他の聴講者が「むじな」*1だと気づく(!) 人間だとばれた彼は教室から遁走するが、むじなの群れに囲まれてしまう。遅れて、テレビをのせたソリをひいたむじながやってくる。テレビが点き、先ほどの講演者が映って主人公を冷笑する。そこへ別のむじなの一団が訪れ、別のテレビが前の章で出てくる男を映し出す。二派のむじなが争う間に、主人公はほうほうのていで逃げ出す。この章の最後のほうで「魚祭り」なる単語が出てきて、次の章のタイトルは“Festival”である。

 エリック・マコーマック、ノーマン・ロック、ジョン・スラデックなどを思い出したが似て非なる。どうやらマジックリアリズムではなく、不条理な幻想小説のようである。発想が非常に好みだ。今後もこの本については折に触れて書き残しておくつもりだが、今回のように綿密に記すことはないと思う。

*1:Weasel=イタチって書いてあるけど、これはむじなとしか思えない。